【一陽来復御守】江戸城北の総鎮守・穴八幡宮を散歩する【流鏑馬】

スポンサーリンク
歴史さんぽ
スポンサーリンク

江戸幕府の崇敬を集めて繁栄を遂げた穴八幡宮

 地下鉄東西線早稲田駅から西へ徒歩3分ほど歩くと、穴八幡宮へたどり着きます。

 創建は康平5年(1062)。平安時代後期の武将で、鎌倉幕府を開いた源頼朝みなもとのよりともの祖先にあたる源義家よしいえが奥州平定の帰途、この地に太刀と兜を納めて氏神八幡宮を勧請し、東北鎮護の社として祀ったことにはじまります。

 祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后の3柱です。

 その後、江戸時代の寛永18年(1641)、庵を建立するために南の山すそを切り開いたところ、神穴が出現したために「穴八幡宮」と呼ばれるようになったと伝わります。

 鳥居の下をよく見ると、カメが支える形となっています。

 じつは別の鳥居の下にも、カメがいます。正確にいえば、玄武げんぶ(古代中国の四神の一で、カメとヘビが組み合わさったもの)です。

 玄武は四神のうち、北を守る守護神です。穴八幡宮は江戸幕府3代将軍徳川家光の時代に「江戸城北の総鎮護」とされました。そのため玄武が配されたのだと考えられます。

 鳥居をくぐると、そこには流鏑馬やぶさめの銅像が置かれています。

 享保13年(1728)、江戸幕府8代将軍徳川吉宗は世継ぎの疱瘡ほうそう平癒を祈願し、穴八幡宮へ流鏑馬を奉納しました。以来、将軍家の厄除けや若君誕生の際に高田馬場で流鏑馬が奉納されたと伝わります。

 流鏑馬は明治以降に中絶。高田馬場も廃されましたが、昭和9年(1934)、皇太子殿下御誕生奉祝のため、穴八幡宮境内で流鏑馬が再興されました。その後、第二次世界大戦の影響でまたしても中断に追い込まれますが、昭和39年(1964)、水稲荷神社境内で復活。昭和54年(1979)からは毎年体育の日に都立戸山公園内で行なわれています。

『江戸名所図会』に描かれた高田馬場。馬場は明治時代に廃された。

 階段を上っていくと、やがて境内が見えてきます。朱色に塗られた山門(随神門)は立派の一言。中には武将の像(四天王か)と白馬が納められています。

山門に施された彫刻も立派。

 山門をくぐると、右手に手水舎があります。

 なんとそこには布袋様の石像が。この形態は初めて見ました。また、その隣には布袋像水鉢(新宿区指定文化財)もあります。

 もともと布袋像水鉢は江戸城の吹上御庭にあったもので、3代将軍徳川家光が穴八幡宮に奉納したと伝わります。以来、東都随一の霊像として信仰を集めてきました。木箱にお賽銭を入れ、布袋像をなでると金運がアップするといわれます。なお、見学できるのはレプリカです。

 さて、手水舎で身を清めたあとは、拝殿へと向かいます。

 じつは穴八幡宮は、太平洋戦争時に社殿のほとんどが失われました。その後は仮社殿が建立されましたが、平成元年(1989)から往時の姿に戻す工事がはじまり、段階的に再興されていきました。社殿を守る狛犬は平成4年(1993)の奉納です。

 そのほか、境内には「神武天皇遥拝所」「出現殿」などがあります。出現殿は江戸時代に現われた神穴の前に拝殿を設けたものです。

出現殿

冬至期間限定の「一陽来復御守」ってなに?

 穴八幡宮で授与している御守のなかでもっとも人気を集めるのは、冬至の期間限定で頒布される「一陽来復いちようらいふく御守」です。江戸時代の元禄年間(1688~1704年)以来の伝統を持ちます。

 一陽来復は、冬至を指す言葉です。古代中国では春は陽、冬は陰と考えられ、冬至は陰の極点にあたりました。つまりこの日を境として再び春が巡ってくる・生命が再生することから、めでたいことが再びやってくる、凶事が去って吉事が訪れることを「一陽来復」と呼ぶようになったのです。

 再び巡る、つまり金銀が融通されるということで、古来、金運向上の御守としても信仰を集めてきました。

 令和2年度は12月21日の冬至の日から2月2日の節分までの期間で頒布されます。御守は壁に貼るタイプの「一陽来復御守」とカードタイプの「一陽来復懐中御守」の2種類。壁に貼るタイプのものは、冬至・大晦日・節分のいずれか都合のよい日の夜中の12時に恵方の方角に向けて祀るとよいとされます。令和2年度の恵方は南南東なので、御守は北北西に貼るということです。御守をいただく際に説明書きがついてきますので、それを参照して貼るとよいでしょう。

 なお、授与開始当日の21日は大変な混雑が予想されますので、日にちをずらして行くことをお勧めします。

穴八幡宮の一陽来復御守

コメント

タイトルとURLをコピーしました